Eight Days A Week - 働く母は週8日営業

元DeNAwebディレクター、現在北陸で夫と共にビジネスを営む35歳ワーキングマザー。マメ(息子・6歳)、アズキ(娘・3歳)、フットワークの軽すぎる夫との4人暮らし。

子どもがひとりで歯みがきできるようになるまでのあまりにも長い道のりのこと

こんにちは、ミユキ(名字)です。

 
4歳になるマメ(息子)、長い道のりの末に遂にひとりで歯みがきができるようになりました。

今回はそこに至るまでのお話です。

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イヤイヤ期に歯みがきしたがらないのは当たり前なんだけど…

イヤイヤ期の子どもに歯みがきをさせることの苦労と言ったら…。毎日毎日歯みがきいや!と言われ続け、あの手この手で歯みがきをさせた苦難の日々。
 
そんな戦いの末に訪れたイヤイヤ期の卒業。
オムツがはずれ、抱っこ抱っことグズる頻度が激減し、その他色々なことに聞き分けができるようになりました。
そして歯みがきも日課として受け入れられるようになり、歯みがきを促すとスムーズに始めてくれるように。
マメの場合はだいたい3歳半くらいの頃でした。
 

歯みがきはイヤじゃなくなった。それでもできない?

ところが、いざ歯みがきを始めるとマメの様子がおかしいのです。
 
最初は快調に歯みがきをしていたはずが、気付けばなんとなく元気がなくなって表情が消えていき、更には徐々に手の動きも鈍くなり、最後は虚ろなまなざしで歯ブラシを床に置いて、完全に動きが止まってしまうのです。
 
その一連の流れはさながら「人がやる気を失うまで」のプロセスを早送りで見ているかのよう。
 
最初のやる気はどこにいっちゃったんだろう?
とずっと疑問だったのですが、最近その壁を越えてすんなり歯みがきできるようになった姿を見て、ようやく気付いたことがありました。
 

歯みがきってそもそも技術的に難しい行為なのでは?

歯みがきしたくないんじゃなくて、難しいからできないだけなんじゃないか?
ということです。
 
私は歯みがきのやり方を
「上のよこ、反対がわのよこ、下のよこ、反対がわのよこ、さいごは前」
という風に歯の位置をざっくり5ヶ所に分けて磨くように伝えています。
 
でも今までは前や下ばかり磨いて、例えば上の奥歯は絶対にできませんでした。
 
それを私は「歯みがきがいやでわざとできないフリをしているんだ」と思っていたのですが、たぶん彼は彼なりに一生懸命やろうとしていたんですよね。
でも例えば上の奥歯の場合、「歯ブラシの向きを変えて上向きに力を加えて前後に動かす」という一連の動作が彼にはとても難しかったのだと思います。
 
「なんだかんだ毎日やってる事なんだから、さすがに歯みがきくらいできるだろう」と私は思ってしまっていたのですが…。
 
 

教訓

やる気はあっても難しくてできない。
それを、やる気がないと見なされて怒られるという理不尽…。
マメの自立心と自信を失わせるような態度を続けていたんだなと、今は反省しかありません。
 
4歳になった今では、これまでの悪戦苦闘が嘘のようにあっさりと上下左右を磨くマメですが、
きっとこれからも「やりたくない」んじゃなくて「やろうとしてるけどできない(でも親からすればできて当然に見える)」ことに数多くぶち当たるんだろうと思います。

その時に、あせらず苛立たず、できるようになる日を信じてのんびり地道に教え続けてあげられる親でありたいものです。

まあそれが難しいんですけども。



保育園行事って必要ですか?

こんにちは、ミユキ(名字)です。

少し前の話ですが、年度末に保育園でお遊戯会があり、夫婦揃って見に行きました。

http://www.flickr.com/photos/7940758@N07/14499049133

photo by MIKI Yoshihito. (#mikiyoshihito)


人前の緊張に耐えられない息子

人前が苦手なマメ(息子)は前方に並べられた椅子に座ってカチーンと固まっていました。
この手のイベントではいつもこうです。
 
保護者席に着いた私たちを振り返って不安そうにするので、近寄ってマメの隣にしゃがみ
「ママもパパもいるから大丈夫だよ」
と励まして手を握りました。
 
やがてお遊戯会がスタート。
離れるとベソをかくので私はマメの横に控えたままです。
 
そして、歌ったり、歌に合わせて軽く踊ったり、名前を呼ばれて手を挙げて返事したり、といった一つひとつがことごとく出来ません。
そのうち椅子に座っているのも限界になり、
「抱っこぉー…」
と半泣きになり始めました。
 
どうしたものかと夫の方を振り返ると、「マメの言う通りにしてあげて」という表情をしていたので、私は椅子の横にしゃがんだままマメをギュッと抱きしめてやりました。
 
演目の最後は「おおきなかぶ」のお芝居です。
何とかネズミの衣装を着せることはできたものの、前に出て演技をできる雰囲気では全くありません。
しかしネズミなしではかぶが抜けません...。
 
おじいさんから順番に前に出ていってかぶを引っ張る園児たち。
遂に「ネズミのマメくーん」と呼ばれ、絶対に行かないという固い意志で踏ん張るマメを抱きかかえて前へ出ました。
片手でマメを抱き、もう片手でネコ役の背中を引っ張り、無事にかぶを抜くことができたのでした…。


さてお遊戯会の後は保護者と一緒に昼食会がありました。
すっかり場の緊張感もなくなって、本来のテンションを取り戻したマメはたっぷりご飯を食べて、最後に歌う歌も元気に歌いきってくれて、ようやくマメの「晴れ姿」を見ることができました。


我が子を谷に落とすのは何歳から

帰宅後、夫と話しました。

夫「なんかさ、俺はああいうお遊戯会って、やらなくていいと思うんだけど。今日のマメすごく嫌そうだったじゃん。あそこまでしてこんな事やる意味あんの?って思っちゃうんだよね。結局大人のエゴじゃないかな…」

私「確かに、あの年齢の子たちには全体的に内容が複雑過ぎるとは思いましたね…。普段の練習ではできても、人前では出来ない子もいるし。
でも、そういうのも含めて、それが集団生活とか社会の縮図であるって事を学ぶ場でもあるんじゃないですかね?
人前で恥ずかしいとか、上手くできなくて悔しいとかって、それこそこの先の人生でいくらでも経験するし。
ああいう場でもマイペースな子とか、引いちゃう子とか、ばっちり出来ちゃう子とか、色んな子がいる事も学ぶわけだし。
それで自分の性格が嫌だ、直したいって思うきっかけになるかもしれないし」

夫「うーん、そういうものかなぁ…」


と言いつつ、私も自分の意見に確信を持っているわけではありません。

保育園などの集団生活が後の人生の基礎となるのは間違いないであろうし、私の意見にももっともらしい部分はあるけれど、じゃあ今回のマメが感じたほどの高い精神的負荷をわずか3歳の子が経験するのがいい事なのかと言うと、そこは自信が持てません。

かと言って、辛い思いをして欲しくないという思いが強すぎてもいつまでも過保護になりそうだし、またはかえって本人が自分を変えたいと思うきっかけを奪ってしまうかもしれません。


これについては簡単に答えは出せないと言うか、その子ごとの性格や環境に応じてうまくやるしかない、みたいな曖昧な結論にならざるを得ないなぁと思います。


保育園行事の意義と、親の存在意義

ただ少なくとも、以下の2つについては私なりの結論が出ています。

  1. なぜお遊戯会などの保育園行事をやるのか(保育園行事のゴールとは)
  2. 親は子にとってどういう存在であるべきなのか

1.なぜお遊戯会などの保育園行事をやるのか(保育園行事のゴールとは)

おそらく大きく3つ、
  1. 親のため(園での姿、成長の様子を見られる)
  2. 子どものため(目標を設定して何かを達成することを学ぶ)
  3. 先生のため(子どもを教え導くことを学ぶ)
があるのかなと思います。
しかしやはり保育園というのは「子どものため」が第一で、その上で副次的に親や先生にも学びや喜びがうまれるというのが正しい姿であると私は思います。

少々物足りないくらいでいいから、ある程度皆ができる程度の出し物なり目標なりを設定してあげて、完璧にできた子でも、一部しかできたなかった子でも、それぞれどこかに達成感を得られるようにして欲しいなと思います。
そうすれば親としても「手をあげるところうまくできたね」とか「お返事しっかりできてたね」とか、どこかしら褒めてやれます。

今回のマメのお遊戯会の場合ですと、マメはリアルに何ひとつ出来なかったので、めちゃくちゃ些細なことを褒めるしかなく無理くり褒めた感が出てしまうわけです。
さすがにかわいそうです。



2.親は子にとってどういう存在であるべきなのか

これについてはとにかく私の信条に揺るぎはなく、
親は常に子どもの感情を認めて受け入れる存在でありたいと思っています。
みんな椅子に座ってる中で一人だけ抱っこしてほしいとベソをかいても、「もう3歳でしょ、みんなは一人で座ってるよ」とは決して言わないで、緊張や不安で親をすがりたい気持ちを受け止めてあげたいのです。

マメのビビリ症、もちろん克服してほしいです。
人前なんか気にせずのびのびいつも通りにお遊戯してる姿が見たいです。
でも、不安でビビッちゃうんだから仕方ないじゃないか。
「大丈夫、できるよ」っていくら励ましたって、本人ができない気分なら仕方ないじゃないか。

ならば私たちはただひたすら、本人が心を決めるまでの安全地帯でありたいと思うのです。
ここにいれば何にも怖くないし誰にも否定されないって場所でゆっくり気持ちを整えて、誰かに急かされたからじゃなくて、自分の意志とタイミングで動き出すことが、何より本人の自信を養うと私は信じているのです。



おわりに

ちなみに我々夫婦はコンプレックスとは無縁の性格でして、人前が恥ずかしいとか、上手くできなかったら怖いとか、失敗が不安だとか、リスクを取らない安全な人生を送りたいとか、微塵も思わないふたりです。

そんな両親から何でこんなにアガリでビビリな子が産まれたのか不思議なものです。

でも、子を産むまでは、自分と正反対の性格の子が産まれたら私はその子を愛せるだろうかと不安に思ったこともあったのですが、今のところそんな心配は全くの杞憂だったと思っています。自分の子はどんなのであれ可愛いです。大正義です。最高ですよ。

ただ逆に、自分自身にコンプレックスに思っている部分があるとしたら、子どもに同じ要素を見つけた時こそ親は受け入れにくいのかなと思います。
結局のところ、負の感情は自分自身を映し出す鏡なのですね。
今のところそういうのはないですが、いずれ子どもたちが大きくなってそんな自分たちとの負の相似点を見つけた時に、子どもではなくどれだけ自分自身を変える努力が出来るかが勝負どころだなと思います。


あ、そんな事を気付かせてくれたという事で、やっぱり保育園行事は意味があったのですね。
いやー、親になるって日々学びだなー。



そぼろご飯のおべんとう

こんにちは、ミユキ(名字)です。
今日から子どもたちを連れて、一足早く実家へ帰省します。
今まさに新幹線の中です。

駅のコンビニでそぼろ弁当を買いました。
私は昔からそぼろご飯には目がないのです。

そぼろご飯と言うと、必ず思い出す、ある出来事があります。

たぶんあれは小学生の時だったと思います。
遠足があり、母がお弁当を作ってくれました。

遠足のお弁当と言えば、子どもにとっては一大関心事。
特に女の子にとっては、カラフルなおかずやフルーツが入っているかとか、可愛い柄のカップやピックをあしらっているかとか、そんな事も気になります。

さて、お弁当の時間になり、仲良しの友達と集まってレジャーシートを敷き、ドキドキしながら私はお弁当箱の蓋を開けました。
すると中には、一面に3色のそぼろご飯。
その時私はまっさきにこう思いました。

何この、地味なお弁当…。

他に入っていたおかずも、どれもパッとしない色合いでした。
何よりそぼろご飯というのが、いかにも子どもらしくない大人のお弁当という感じがして、私はとにかく恥ずかしくて、友達から隠すようにして慌てて食べました。

何でこんな子どもらしくないお弁当をわざわざ作ったんだろう…
普通にご飯にふりかけにしてくれた方が、よっぽど可愛いのに…
そんな事を思いました。

 
さて、帰宅して母に空っぽのお弁当箱を渡した時、母は嬉しそうに私に言いました。

「今日のお弁当、どうだった?あなたの大好きなそぼろご飯にしたんだよ」

ハッとしました。
そうか、お母さんは私のために、私の好きなものを作ってくれたんだ。

私には姉が2人いて、当時は既に2人とも毎日お弁当を作ってもらっていたので、まさか自分のためにわざわざお弁当の中身を考えてくれたなんて思いもよらなかったのです。
今でこそ分かるけれど、毎日のお弁当にそぼろご飯みたいな面倒なものは作らないはずで、それは私の遠足というイベントのためのスペシャルメニューだったわけです。

母が私のために作ってくれたお弁当なのに、
それを地味で恥ずかしいと隠すように食べた自分の行動を思い返して、私は泣きそうになりました。

母は、私が喜んで食べている様子を想像してくれていたんだろうな。
なのに私は…


今でもその時の事を思い出すと、胸がキュッと締め付けられるような思いがします。



来月は保育園で初めての親子遠足。
そぼろご飯のおべんとうにしようかな、と思っています。

子ども達は喜んでくれるかな?
こんなのやだって言うかな?
それでもやっぱり作りたいな。