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元DeNAwebディレクター、現在北陸で夫と共にビジネスを営む35歳ワーキングマザー。マメ(息子・6歳)、アズキ(娘・3歳)、フットワークの軽すぎる夫との4人暮らし。

親子ほど弱いつながりはない〜東浩紀著「弱いつながり 検索ワードを探す旅」書評

こんにちは、ミユキ(名字)です。

弱いつながり 検索ワードを探す旅

夫に薦められて、東浩紀著「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読みました。

東浩紀氏は10年ほど前に「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)」を読んだくらいですが、その主張には当時首肯する部分が多く印象的な一冊でした。

一方夫は、本書(「弱いつながり」)の主張は自分には当たり前の事で特に目新しさはなかった、ということだったので、同じ東さんの著書を読んで夫婦でどう意見が異なるか興味がありました。

 

本書の主張を端的に言うと「ネットを捨てよ、旅に出よう(その後でまたネットに戻ろう)」です。

いわゆる「自分探しの旅」とは違う、旅の新しい視座を提示しているのですが、本筋とは少し外れる部分で非常に共感した箇所があったので、このエントリでは特にその部分にフォーカスして書いてみたいと思います。

 

※本書全体について詳しくは「隠居系男子」というブログで分かりやすく解説してくださっているので、興味のある方はそちらもどうぞ。

現代を生きる旅好きの若者に読んで欲しい!東浩紀著『弱いつながり 検索ワードを探す旅』 | 隠居系男子

 

ネットの人間関係は実は強い?

現代の特徴であるネット上の人間関係というのはリアルの人間関係よりも「弱い」つながりだと思われていますが、実はまったく逆だよ、というのが東氏の意見です。

ネットは、強い絆をどんどん強くするメディアです。ミクシィフェイスブックを考えてみてください。

弱い絆はノイズに満ちたものです。(中略)現実のネットは、そのようなノイズを排除するための技法をどんどん開発しています。いまのネットでは、「パーティでたまたま隣り合って、めんどうだなと思いながら話しているうちにだれかを紹介される」という状況を実現するのがとてもむずかしい。めんどうだ、と思ったら、すぐにブロックしたりミュートしたりできるからです。

このネット特有の技術である「ノイズの排除」により、現代人はどんどん想定の枠組み内でしか生きられなくなっている、というのです。

 

親子ほど弱い絆はない?

東氏はさらに「親子関係は弱い絆の最たるものでもある」とも言います。

ぼくには小学生のひとり娘がいます。(中略)彼女はぼくが三四歳のときに生まれましたが、二〇代に作っていたら、それは当然別の子どもだったはずです。いや、それどころか、子どもは基本的に精子卵子の偶然の組み合わせでしかないので、もしいまタイムマシンで時間を遡り、同じ日のまったく同じ時間に同じ妻と同じ行為を繰り返すことができたとしても、生まれてくる子どもは遺伝子的に別人になってしまう可能性が高いのです。そして、もし娘がいまの娘ではなく、まったく違った人間だったら、いまのぼくの生活はまったく異なったものになっていたことでしょう。

人生のほとんどは、かくも危うい偶然のうえに成立しています。親子関係は、人間関係のなかでもっとも強いものですが、しかしそれは序文の分類で言えば「弱い絆」の最たるものなのです。(強調は筆者)

 この部分、私がこれまで何となく感じていたことが見事に言語化されていて、衝撃を受けました。

そう。子どもを産むって、特に子どものいない人にとってはとんでもない博打に思えると思うんですよ。

まず、欲しいなと思ってすぐ授かるとは限らない。10年越しにようやくやって来るかもしれない。

男か女かも分からない。これもすごい。

健康面や心身面の特徴なども予測できない。 

無事産まれたとしても、あらゆる意味で問題なく育つかどうか分からない。

そして究極的には、自分がその子を心から愛せるか、その子が自分を愛してくれるかさえ分からない

もはや不確定要素しかない。まさに「弱い絆」そのものだと思います。

でもそういう弱いつながりにこそ身を投じる価値があると東氏は言います。

本書で(中略)繰り返しているのは、要は「統計的な最適とか考えないで偶然に身を曝せ」というメッセージです。最適なパッケージを吟味したうえで選ぶ人生、それは、ネット書店のリコメンデーションにしたがって本を買い続ける行為です。外れはないかもしれませんが、出会いもありません。

統計から分かることは、もし何回も何回も人生を生きることができるとしたら、確率的にその選択がもっとも利益が大きいよ、という話でしかありません。一回かぎりの「この人生」については、統計はなにも教えてくれないのです。標準とは統計の操作によって現れるものでしかなく、本当はそのとおりの人生を生きているひとなどひとりもいません。何歳で結婚して何歳で貯蓄いくらで何歳で子ども作って…と計算していても、そんなプランはちょっとの偶然ですぐ吹き飛んでしまうのです。

 

「子どもを産むことの責任」とは

ただ、これは決して「だから子どもを産んだ方がいい」という話ではありません。

(東氏も、旅に出よとは言っていますが、子どもを持てとは言っていません)

私が思っているのは、「偶然・不確定の要素が多いから子どもは作らない」というのは違うんじゃないかなということです。

全ての人間は、誰も予測できない偶然の産物としてこの世に産まれています。

結局のところ親と子だってたまたま親と子だっただけで、パーティで偶然隣り合わせたのと変わりはないのです。

 

で、それって、よくある「産んだ以上は責任を取らなきゃいけない」とか、逆に「責任取ってくれ」みたいな主張の真逆ですよね。

もちろん、養育義務とかの最低限のルールは社会に生きる以上遵守せねばならないものの、偶然隣り合わせただけの子どもの人生すべての責任なんてそもそも取れる訳がなくて、そういうものを親も子もお互いに求めることは出来ない。

結局は全く別個の人間なんだよね、と。

子どもを産み育てる時に、このスタンスを保つことができないと、親子がお互いに苦しめ合う事にもつながるのかなあと思うのです。 

 

という事は常々思っていたのですが、 一方「血縁」というものの因縁の強固さもやはり無視できないよな、という実感もあり(「心臓を貫かれて」という本がそんなテーマを扱っております)、「じゃあ親子ってどうあるべきなんだっけ?」という事についていまいち腹落ちしない部分があったのですが、

「親子ほど弱いつながりはない」という東氏の意見が今のところ自分にとって最もすんなりと納得がいく解釈だなと思ったのでした。

 

子育てというプレゼント

決して私は子どもに対してドライ・冷淡に養育だけすりゃいい、と思っている訳ではありません。

偶然とは言えマメ(息子)は我々夫婦の元にやって来た子どもであり、かけがえのない「ただ一人の私たちの息子」です。

確かに私たちは、他人に対して何も期待できないし、思い通りに動かすこともできない。

でも、その人たちのことを思ってはたらきかける事はできるし、それくらいはしていいと思っています。

 

例えば、私たちがある人のためにプレゼントを贈る時、

「あの人はどういうものが好きかな」

「これなら気に入ってくれるかな」

「今持っているものとかぶらないようにしよう」

など、相手本位の思いで検討するでしょう。

その上で、「自分にしかできないセレクト」という視点も加わるかも知れませんが、それより先に「相手が喜ぶかどうか」という視点が欠けていたとしたら、ただのひとりよがりになってしまう訳ですよね。

そして実際にプレゼントを贈った時、それが相手のためを思って選んだものならば、受け取り手は嬉しい。

自分が今一番欲しいものだったかどうかは関係なく、自分のために色々と考えてくれた、そのプロセスや思いも含めてしあわせになれるのです。

 

私は子育てにも似たものを感じています。

子どものためにできるだけの事はしてやりたいと思う。

自分なりに、子どもにとって一番良いと思える選択肢をとっていきたいと思う。

でもそれが実際一番かどうかなんて分かりようがないし、そうである必要もないと思う。

その選択が、「”私が”この子にこうなってほしいから」という自分本位ではなく、子ども主体の選択であればいいんだと思っています。

 

だから私は子どもの命名に親の思いや願いや期待を込める事に否定的です。

※名付けについては詳しくはこちらに書いているので、こちらもぜひ読んでみてください。

 

結論、とりあえず旅に出ましょう 

このブログでは「親子」の部分のみに触れましたが、本書の主張自体は「旅に出よう」で、とても面白いのでぜひ読んでみてください。

旅と言っても、「バックパックでインド一ヶ月」みたいなヘビーなやつではなくて、いわゆるフツーの観光を指してますよ。

我が家も、夫が突然海外に行ったり、夫が二年周期で転職したり、夫が突然無職になったりと、予定調和とは程遠い日々を送っていますが、おかげで常に新たな「検索ワード」を獲得できる刺激的な日常を送ることができています。

でもそろそろ夫由来の刺激にも飽きてきたことですし、ここらでパートナーチェンジってのもありですかね。

 

あ、なしですね。

 

 

弱いつながり 検索ワードを探す旅

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動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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心臓を貫かれて

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