Eight Days A Week - 働く母は週8日営業

元DeNAwebディレクター、現在北陸で夫と共にビジネスを営む35歳ワーキングマザー。マメ(息子・6歳)、アズキ(娘・3歳)、フットワークの軽すぎる夫との4人暮らし。

義兄さんと酒と私〜祖父の手記から

今回全く育児と関係ないです。

部屋の整理をしていたら祖父の手記が出てきた。
祖父の死後の荷物整理の時に見つけてもらってきた物で、昔ながらの原稿用紙に書かれた物をホチキスでまとめてある。
祖父は太宰治松本清張が好きで、自分でもよく、旅行記やちょっとしたエッセイなんかを書いていたみたいだ。
(祖母によれば誤字だらけ、なおかつちゃんと完成した物も大してないらしいが)

その中でなんだかとても気に入った一篇があって、それをもらったのだが、今日はそれを紹介したいと思う。
きざったらしくて付け焼き刃の技巧を見せつけるような文体、エッセイの体裁を取ってはいるけどこれ絶対脚色入りまくってるだろと突っ込まざるを得ない内容など、まさに素人の手なぐさみという感じだけど、それでも、この文章には少し惹かれるところがあるのだ。



「義兄さんと酒と私」 昭和六十二年二月 ××××(祖父の名前)

残照のころ、その部屋には翳りがただよいはじめていた。
「明さんお酒のんだら?」呟くような弱々しい声だった。あのとき義兄は、そう言っただけで苦しそうに、荒い息づかいを弾ませていたのを思い出す。頬が痩せこけて尖った顎の先で、長く伸びた白い不精髭がキラッと光った。
「わるいけど、横にならせてもらうよ」痩せ細った腕で躰を支えながら、緩慢な動作で布団へ臥せると、苦笑いを浮かべて、
「ダメになったなア」と、自分を嘲るように呟いたのを忘れない。
私は、東京に在る本社へ出張するたびに、必ず義兄の家を訪ねるようにしていたが、しかし、今回は少し事情が異っていた。半年ぐらい前から病臥していた義兄の容態が、最近思わしくない、という報らせを受けて、急遽本社出張の名目で上京したのだが、今回は義兄のお見舞が主な目的であった。
私が、その三ヶ月くらい前に、やはり社用で上京し、義兄を見舞ったことがあった、そのときは、痩せて弱々しく見えたが、今度のように五体から死の翳りを感じるといった、差し迫った容態には見えなかった。そのときのことだが、私が義兄の臥せている部屋へ入ると、義兄はベットの上で起き上り、懐しそうに目を細めて、私を見遣りながら、
「出張?」と、よく透る声で訊く、
「いつまで?泊っていけるの?」
「明日の午后には帰らないと……」
「明さんは真面目だからなア」と、揶揄うように苦笑を浮かべて、ベットの下へ手を伸すと、日本酒の一合壜を取り出した。
「すこし飲む?」と言いながら卓上の茶碗を取ろうとするので、私は慌てて腰を浮かせて湯呑茶碗を二つ取り、座り直すとき気懸りになっていたベットの下を覗くと、酒の空壜が五六本ころがっていた。
「義兄さん、お酒はいけないのでは?」
「なに、少しぐらいは……」
「でも……」と、私は、あとの言葉が続かなかった、そして、その時いやな予感が私の胸をよぎったのを覚えている。
それは、私の知人が胃癌におかされて、手術も何も手遅れで、余命もあまり永くは無いと宣告された。もちろん本人はそんな事を知らない。家族は、医師の了解を得て、病人を自宅へ連れ帰り、病人が望むままの我がままをさせていた。その頃、私が見舞ったのである。
私が、枕元へ座ると、知人はサイドボードのウイスキーを指して、飲もうという。私は困惑して、奥さんの方を窺うと、哀し気な眼をした奥さんがーーどうぞ一緒に飲んでやって下さいーーと、言わんばかりに微かに頷いた。その時、私は、何というか、いたたまれない気持、いや恐怖、いや、むしろ壮絶な心境だったかも知れない、私は、そんな悲愴な思いに駆られながら、ウイスキーを飲んだことを覚えていたのだが、義兄のベットの下に転っていた酒の空壜を見つけたとき、ふと、そのことを思い出したのである。
話が前後するが、文章の冒頭で述べたように、私が、義兄の容態が悪化した報らせを受けて、とりあえずお見舞いにと、旅支度をしていると母が一緒に行きたいと執拗に言う、「こんどは出張だから、又、あらためて、それに危篤だというわけでもなし……」と、子供をなだめるように言いきかせたが、母は不服そうに黙りこくってしまう、それというのはーー私の姉が、義兄を東京で世帯を持ったのは、もうずいぶん旧い戦前の事だが、それ以来義兄は、私の母に対して実母のように接し労わってくれたので、母は上京すると二三週間は滞在してくるのが常で、帰ってくると、その土産話に観劇や旅行へ連れてもらった話を、次ぎ次ぎに嬉しそうに並べ立てて無邪気に喜んでいたーー。そんな経緯から母は、義兄を殊の外慕っていた。それに、自分の手の届かぬところで義兄が羅病しているので、ひといちばい神経質な母は、いろいろな事態を想像して不安に駆られていたのだろう。今にして思えば、私が、義兄の病状悪化の知らせを受けたとき、母の同行を押えて私一人で上京した事は、義兄の病態についての私の憶断が甘かったと後悔している。私が帰って間もなく凶報を受け取ったのである。
その時母は、驚愕し、霹靂に撃たれたように、しばし茫然としていたが、やがて蒼白な顔を引きつらせ、驚きの余りか涙も見せず、ひとことも喋らず、わなわな震える手で旅支度を始めた。その光景は今も忘れない。
私は、母に従って一緒に上京したのである。

私が、名古屋で初めて井上さん(義兄)と会ったのは、私が中学三年生のお正月だったと思う、姉が、井上さんの家へ招ばれていたので、母の言いつけで姉のお供をしたのだが、今になって想えば、なんのことはない護衛役だったのである。その頃姉が、井上さんと婚約していたかどうかは知る由もなかったが、男女の交際に格別厳しかった母が、行くのを許したのだから恐らく婚約していたのだろう。
玄関で母堂と新年の挨拶を交して座敷へ通ると、蓬髪の井上さんは、既に先客の友人と盃を重ねていたらしく、ほろ酔いの紅い顔を綻ばせながら、
「あ、いらっしやい、お目出度う。お母さん、お母さん、逸子さん(姉)が来たよ。あ、そう、もう挨拶は済んだ。あ、逸子さんはそこへ座ったら。明さん(私)はここへ。あ、お酒飲む、お目出度いんだから一杯だけ、明さんは?飲まない、あ、そう、でも、お正月だから、そう、これ食べなさい。美味しいよ。ハッハッハーそうか、お正月のご馳走なんてどこでも同じだけど。明さん食べなさい。逸子さんこれ食べてみたら……。あ、お酒は、ああ、もういいの、そんなら食べたら……」
友人は、井上さんの大仰な接待ぶりを、にやにやしながら眺めていた。
その友人の広い額に三条の引っ掻き傷が、痕跡も生々しく血をにじませ、それにメンソレータムか何か塗っていたのか額がテラテラに光っていた。私は当初からその痕が気になって、ときどき垣間見ていたら、それに気付いたのか、友人は、
「今朝ふとんの中で猫をからかっていたらいきなり引っ掻かれてね、お正月だというのに……」と、照れ臭そうに額へ手をやった。
「いや、猫か奥さんか分からないよ」と井上さんが朗笑した。私にはこの言葉の本当の意味が、よく分らなかったが、皆に合わせて笑った。
やがて小宴も酣のころ、井上さんが浪曲を語り始め、私たちは、黙って神妙に聞き入っていたことを憶えている。
このときの友人が、井上さんと姉の仲人だったのでは、と記憶している。

義兄についての追憶で、酒に関するいくつかのことを想い出す。
たしか昭和十五年だったと思う、私はこの年の徴兵検査で第二乙種であった。私たちは名古屋の滝子町で借家住いをしていた。この頃父は、本業の楽士を退めて小学校の事務員を勤め、私は電機会社へ就任し、弟妹は学生であった。
お盆のころ、東京に住む義兄の家族が揃って私の家を訪れた。姉の里帰りだったのだろう。そんな或る日の夕刻、私は、義兄に誘われて広小路へ夕涼みに出掛けることになった。
母がそれを聞きつけて、夕涼みの散策は浴衣に限るといい、義兄に白絣を奨めて着せ、私は平生来ている紺絣で家を出た。
まだ落日には間のある広小路通りは斜陽が照りつけて残炎が厳しい。栄町で市電を降りて少し歩くと、義兄は予定していたのか、生ビールを飲もうか、と私を促してビルの二階に在るアラスカへ入った。
そのころの私は、まだ酒に馴染む機会は少なかった筈だが、汗ばんだ躰に冷えたビールは心地良く喉をうるほした。義兄は飲み始めると間もなく顔を紅く染めて、私の顔を見詰めながら、
「明さんは強いね、ちっとも赤くならない」と、さも感心したように呟き、続けて、
「いや、アルコールには弱いんだ、若いときに飲めなかったから」と、淋しそうに笑った。
「どうして?」
「家が貧しかった。父の躰が弱くてね」
「でも高商まで……」
「中学も高等学校も、いわゆる苦学生さ」
「苦学生?」
「牛乳や新聞配達、もっとも高商へ入ってからは、下訳の手伝いや家庭教師で学資を稼ぎ家計を助けた、いちばん辛かったのは高商のころだった。高等学校へ来るのは、俺とは別な社会で育った裕福な人種が多い、彼等は階級意識の権化で、人間の価値さえも単純に金持ちと貧乏とに区別して考える。悪徳の根元は貧乏社会で、貧乏から金持ちの社会へ這い上るころが立身出世なのだ。いや、驚いたのは酒と女で遊ぶのは金持ちの特権だと、真面目に信じている。そうかと思えば、彼等が流行言葉のように喚くのは、マルキシズムだ、しかし、それだってキヤバレーで酒を飲み、女の気を惹くための処世術なのだ。
偶には俺だって暖簾をくぐって安酒を飲んだ。そして女将相手にデモクラシーを説いたこともある。しかし、貧乏人が説くデモクラシーは、いや、何とも卑屈で自己弁護的で汚ならしい、喋っている自分が哀れになって泣きたくなる。所詮ああした言葉は、何不自由無く生活している先生方の口からでないと、さまにならないものさ。女将相手の口説も、挙げ句の果ては、なぜ俺だけが貧しくて苦しいのかと、寂し気に愚痴をこぼすのがおちだった。貧乏というのは惨めだけど、俺にとっては懐しい言葉だ……。しかし、こんな話は女房や子供には言えないよ」
私は、このとき義兄の口を吐(つ)いたーー女房や子供に話せないーーと、言ったのを鮮明に憶えている。
この言葉が、なぜか私の胸に焼きついていたのだが、あれから何十年も経ってから、叔父の口からも同じ言葉が吐かれたのである。
昭和三十七八年頃の夏だと記憶している。
珍しく、名古屋から叔父が私の家を訪ねて呉れた。私が和歌山で住むようになって初めての来訪だったので、つもるよもやま話がはずんだ。やがて寝るころになって叔父が、あすの朝できるだけ早く出発したいという、然も紀西線回りの各駅停車で、紀伊半島を一周して名古屋まで帰ると言うのである。
私が、大阪経由に比べて三倍時間がかかると説明すると、叔父は意外な昔話を始めた。
以下「わし」というのは叔父のことである。
ーーこんな昔話は体裁が悪くて、誰にも喋ったことはない。勿論、女房や子供にも言えないことだ。しかし、もう、ずっと昔の事だから時効だろう。わしが十歳くらいだった、和歌山県に住まっていたが、現在の和歌山市よりはずっと南の方で、うん、地名は憶えていないが田舎町だった。
或る日、お袋が突然姿を消した。わしにはその理由が解らない、わしは一人っ子だったが、親父は冷淡で飯も満足に食べさせてくれなかったことを憶えている。
わしは、お袋はそのうちには帰ってくると最初は高を括って待っていたが、季節が移り変っても帰ら無い、親父は、わしに対して益々冷たく当たり散らした。月日が経つにつれてお袋はもう帰らないのでは、と心を痛めながら、子供心に不安と苛立ちを日増しに募らせてた。やがて、寒いだけで食う物も無い正月を迎えた。近所の友達の晴着姿を眺めて、汚れた自分の格好が子供心に惨めで恥ずかしく思われ、これもお袋が居無いからだと一途に思い込んだことを忘れない。
そんなことから、わしはいつしかお袋のことを相手かまわず口走り、誰かれとなく訊き回るようになっていた。
そんな或る日、近くのお寺の小母さんが、お袋が、名古屋の白鳥山というお寺にいる、と教えてくれた。その時はお袋が家出してから既に一年余り経っていたと思う。
わしは、このことを親父に話そうか、話すまいか、と小さい胸を痛めたが、なぜか、お袋のことを話すと親父が怒り出すのでは、と思われ、とうとう話さず終いだった。しかし、後日、分ったのだが親父はお袋の行き先を知っていたようなのである。
お袋の居所が分ってからのわしの胸には、くる日も、くる日も、過ぎし日のお袋の懐しい面影が覆い被さり、夢の中ではお袋の彷彿として笑顔がわしの心をゆさぶった。
彼岸桜が満開のころ、もうわしは、居ても立ってもいられず、親父に無断で家を飛び出して紀伊半島を南へ南へと歩いた。子供のころとはいえ随分無鉄砲な事をやったものだ。
お金は無いし、道中は神社や駅舎で寝たり、食物を恵んで貰ったり、畠で生っている物を食べたり、そうした乞食のような旅を続けて、御坊、田辺、白浜、串本、新宮、尾鷲、鳥羽、四日市、と一ヶ月ほど費して、名古屋へ辿り着いた。あの孤独の旅は飢と恐怖が続く毎日だったが、人間は極限まで追い詰められると子供でも泣くことを忘れてしまうものだ。しかし、夢の中ではよく泣いた。
うん、親父とはそれ以来逢っていない、生きているのか、死んだのか、それすら分らない。ああ、お袋は白鳥山で住職の後妻におさまっていた。そんな訳でわしは、白鳥山で僧侶の修業をすることになったのだ。
いや、実はこんど和歌山へ行こうと決めた時から、何十年も昔のことを想い出して、当時の苦しさや悲しさが今となっては懐しく、彷彿と蘇り、もう出発する前から帰途はむかし歩いた道を辿ろうと、紀西線回りに決めてきてのだーー。
叔父の懐古譚は以上のような概要だったと記憶している。
その叔父も名古屋の家で十年余り前に亡くなって、そのあと叔母は、長男夫婦と暮らしている。
私が一昨年(昭和五十九年)その叔母を訪ねたときのことである。喜寿を超えた叔母はいつものことながら、回顧談を語るのに恰好の相手が来たと、往時のよもやま話に華を咲かせていた。やがて何かの切っ掛けで、私が、「叔父さんが生前和歌山へ来たのは一回だけだったけど……」と話しかけると、叔母は。「そうヨ、わたしは何度かお邪魔したので、お父さんも、訪ねてみたらって、言うんだけど、なかなか腰を上げなかった。何だか和歌山へ行くのを躊躇っていたみたい。それでも一度だけ行ったわねエ」
「あのとき叔父さんは、紀伊半島を一周して帰ったけど……」
「え。そんな事ひとことも言って無かったワ、隆勝(長男)聞いたことがあるの?」
叔母も、傍らの隆勝さんも、怪訝そうな表情で私を見詰めていた。私は続けて、
「叔父さんは、子供のころ和歌山に住んでいて、それで……」
「それ何かの間違いヨ。お父さんが和歌山に居たなんて、聞いたことが無い、ねエ隆勝」
私は、叔母や隆勝さんが呆気にとられた表情で、否定するのを眺めて、ハッと、昔叔父が私の家で「勿論、妻子にも話せない」と言ったのを想い出し、自分の迂闊さを悟り、私は黙りこくってしまった。
いや、全くこの「妻子には話せぬ」と言う件りは、父親の悲劇なのだ。義兄も叔父も、昔の、死にたくなるほどの悲惨な過去を、胸底深く押し込めて、なんの苦労も無く、のほほんと育って来た振りを妻子に見せ、父親の威厳を保とうとするのだが、何かの拍子に、ふと、往時の苦痛や恥辱を思い出し、いたたまれず、地獄の酒を呷るのである。
いや、そればかりではない、父親というのは、いつまでも苦しさを引き摺って生きてゆく宿命を持つ、喩えば、父親は家から一歩出ると必要以上に腰を低くして、上司にはお追従笑いの一つも浮かべ、ひたすら妻子を養う糧を少しでも多く得ようと励む。選挙中の代議士候補そっくりなのである。

あれは確か昭和十八九年ごろ、いや、もう少し前だったかも知れない。とにかく戦局は低迷しはじめ、北方のアッツ島は全員玉砕、学徒動員令公布、そして日本本土の空襲が始まっていた。そんなとき義兄に赤紙召集令状)が来たのである。私は、これが今生の別れになるのでは、などと不吉な感慨に襲われるのを振り払いながら、義兄に別離の言葉をただ、ひとこと言いたくて上京した。
それは夜行列車だった。硝子の破れた窓を板で塞ぎ、車窓からの漏光を防ぐため周囲を黒幕で覆った車内は、立錐の余地もないほど混み合い、人々は沈痛な面持ちで、それぞれが心の痛手に耐えているように眺められた。
私は幸い窓側の席へ座ることが出来た。私と同じに名古屋から乗った臨席の小母さんが、浜松をすぎるころ、いま、息子に面会してきました、三師団、ええ、森山の騎兵連隊です。
皆様のお話では、面会が許されるのは戦地へ出征する時だと申されます。そう思うと、未だ二十一歳に成ったばかりの息子が死地へ赴くのが何とも不憫で……と絶句した。
しかし、その時の私の胸中は、義兄への想いで塞がり、とても小母さんの悲嘆の入り込む余裕は無く、それどころか、ひたすら義兄の死を考え、怯え、暗然としていたのである。
午前中に国立の義兄の家に着いた。義兄は挨拶回りのため不在だった。姉は、町内や友人の訪問客の応待で忙しく、私と落ち着いて話す暇がない、訪問客はみな異口同音に、儀礼的に、お目出度う、と言う。友人や主婦は一寸憚るように、小声でお目出度うと言った。
私は、なすこともなく、ぼんやりして義兄の帰りを待った。私が、気に懸けていたのは、働き手を失った姉が、小さな子供を抱えて、この先の生活をどうするのだろうとそんな世帯染みた心配をしていたのだが、姉は、そうしたことには一切触れず、淡々と振る舞っていた。気丈夫な姉のことだ、無駄なことは喋らないのだろう、と私は思ったが、そんな孤独な姉が哀れだった。
夜遅く義兄が帰ってきた。
翌朝、いよいよ義兄の入隊である。私にはその日の記憶が甚だ不鮮明で、まことに曖昧な光景しか想い出せないのである。それは、私がそれまでに名古屋で、町内や友人などの数多くの出征兵士を見送ってきたので、ややもすると、それと混同してしまうのである。
私が何かのときに、ふと思い浮かべる、義兄を見送ったときの光景は、営門に近付くと、そこは入隊者と、小旗を持った見送りの群でごったがえし、あちらこちらで万歳や軍歌を合唱する叫び声が渦巻き、騒然とした雑踏の浪に義兄が揉まれながら、営門の中へ姿を消すのである。私は瞼が熱くなり、いまにも泣きそうになったのを憶えている。
いや、軍歌というのは、その歌詞と曲いずれにも哀愁切々たるものがあり、歌う物も聞く物もその悲愴感に打たれ、母は子を想い、妻は夫を、男は友を、それぞれ出征した親近者を追慕して瞳を潤ませるものである。
義兄の入隊は呆気無く終った。
その日は武蔵野を吹き渡る風が強く、手に持つ日の丸の小旗がビリビリと震えていた。
その夜。
一戸建てではあるが六畳二間の狭い家で、私と姉は、七輪へ小枝をくべて暖を取っていた、子供たちはもう寝ていたのだろう。
拾い集めた小枝で暖をとるなど、侘しい光景だが、月に一度の豆炭と炭の配給では煮炊きにも事欠いていたのである。見送りに来た身寄りの人々は既に引き揚げて、それまでの慌ただしさは去り、突然襲ってきた深閑として気配に、ひときわ肌寒さが沁み、義兄は兵営で初夜を迎えて今晩は何をしているのだろう、ああ、そろそろ点呼の時刻だ、などと思いを馳せるのだった。姉は赤紙を手にした時から、先々の生活の不安や夫の生死など、あれこれと心を砕いても解決できない心配事を抱えていながら、それを周りに相談して自分を慰める術を知らない性質だけに、心身ともに疲れ果てているように眺められたし、私は昨夜の列車で一睡もしてなかったし、二人は沈黙の刻を続けていた。
国立の夜は寒く、泣きたくなるほどの寂しさだった。私は、とろとろと燃える七輪の炎を見つめていた。
そのとき、勝手口の外で人の気配がした。ガサガサという物の擦れ合う音と幽かな人の足音である。この夜更けに、通路も無い家の裏で、何だろう、私と姉はギヨッとして顔を見合わせ同時に勝手口へ目を遣った。
しばらく、二人が耳を澄ませていると、お勝手の戸口の外で確かに人の気配がする、ときどき戸に触れるのか、かたかたと音を立てるが、戸を開けるのを躊躇っている様子なのである。堪り兼ねた姉が、
「だれ!」と、詰問口調で叫んだ。
姉の声に助けられたように、建て付けの悪い戸をガタガタ軋ませながら這入って来たのは、義兄だったのである。
私は、己の目を疑い、仰天した。
姉は、呆然として言葉もない。
当時、若しも兵営を無断で逃げ出しでもしたら、本人は銃殺、親族も世間から非国民扱いで蔑視の的になり生きてゆけなかったのである。義兄が自由主義の信奉者だっただけに私は、あらぬ心配をしてしまったのだ。
義兄はちょっと照れくさそうに七輪の傍らに座ると、いや実は、と帰って来た顛末を語った。以下俺というのは義兄のことである。
先ず応召者全員の身体検査が行なわれ、これに合格した者だけが入隊するのだ、いや驚いたね、全員真っ裸で並び順番を待つのだ、うん、パンツも無い、ふりちんだ。火の気の無い室で寒かった。永い間待たされて、やっと俺の番になった、軍医は俺の胸へ当てた聴診器に首を傾げ、なんどもなんども診直した挙げ句、うん肺結核だ、と呟き書式に何やら書き込んだ。それから視力だとか、痔、性病、など頭の先から足の先まで、全身の検診を終え、衣服を整え、別室の隊長らしき人の前へ直立不動の姿勢で立つ、隊長は厳かに「肺結核だ。軍隊は共同生活をする所だ、伝染病はいかん。一日も早く病を直し、国に御奉公できる身体になれ。不合格。即日帰郷」まあ、ざっと、こんな具合で営門を出た。そのとき俺は、たかだか二三時間いた営門の中と、今俺が立っている営外とでは、こんなにも世界、いや雰囲気が違うものかと、つくずく感心した。最初営庭へ整列した時、係りの兵隊の第一声が「ここは娑婆とは違うんだ」と、怒鳴ったが、全くだ。
さて、家へ帰ろうと、ふわふわ歩き出したが、令状を受け取ってからここ数日間の出来事が夢のようで、足が地に着かない。そのとき、出征兵士を送ってきたのか、日の丸の小旗を手にした割烹着姿の一段とすれちがい、ハッと現実に戻った。
家を発つときは、町内の人々に万歳々々と歓呼の声に送られ、それに友人たちからは沢山の餞別を貰い、滅私奉公などと挨拶を打って営門を潜ったのだ。もし帰宅の途中で町内の知人とでも会えば、永々と即日帰郷の顛末を説明しなければならない、いや、会う人ごとにだ。いくら軍の命令で即日帰郷になったとはいえ、間が悪いし、いちいち説明するのが物憂いし煩わしい。そんな訳で深夜に帰ることにしたのだ。だが、用も無いのに、彼方此方を彷徨い歩き日の暮れるまで時間を潰すのが、随分永くて苦しかった。
ひとむかし前なら、喫茶店や飲食店、あるいは本屋かデパートで暇潰しもできたが、店舗がすべて廃業に追い込まれているいまは、当てもなく歩くか、公園のベンチでぼんやりして空虚な刻を過すしかない。
それに、偶然にしろ、知人に会うのも厭だし、何だか犯罪者が逃亡しているみたいに怖じ気立ち、つくづく自分が哀れになった。
ああ、勝手口から、うん、それは、もし来客でもあると煩わしいと思い、裏口へ回って様子を窺ったのだ……。
私の脳裏を今朝からのいろいろな出来事が駈けめぐり、それに寝不足も加わって霞がかった感覚の片隅で、今ここに義兄がいるのは幻覚ではない、現実なのだ、と何度も自分に言いきかせながら義兄の話に耳を傾けていた。
ふと、顔を上げると、いつしか黎明の光が窓硝子に反射して輝き夜明けを告げていた。

義兄の追憶は戦後の新宿へ飛ぶ。
戦後、焼野原の新宿でいちはやく活況を呈したのは、焼け跡へ雑草が蔓るように乱立した飲み屋だろう、巾二米ぐらいの迷路のような入り組んだ路地を挟んで、掘っ立て小屋が無数に立ち並んでいた。数十軒、いやもっとあったかも知れない。手拭いを縫い合わせてそれに「千代」とか「お花」とか下手な字で屋号を書いた暖簾を撥ね除けて首を突っ込むと、カウンターと粗末な長椅子がある。どの店も五六人で満席になる。女将が一人。そこで鰯の素乾しを噛じりながらカストリを飲むのである。そんな店でも、飲んでいるとつい昨日までの窮屈だった戦時中を想い較べ、朧気ながら自由という開放感を覚え、嬉しさが込み上げてきた。
そのころ私は、出張で年に二三回は上京していたので、その都度義兄と待ち合わせて新宿で飲むのが恒例になっていた。
やがて義兄に馴染みの店ができて、いつもその店へ行くようになった。いつだったか、そこの五十位の女将が義兄に向い、
「お宅の奥さん、随分ノーブルねエ」と真面目な顔付きで大仰に姉のことを褒めた、いつか義兄が姉を連れて来たことがあったのだろう。
義兄は突然吹き出し、
「ノーブルか、うん、ノーブルねエ」と、繰り返し、ひとしきり哄笑し続けた。
いや、野暮ったい下卑た小母さんが、怖めず臆せずのめのめと、ノーブルと言ったのが義兄を喜ばせたらしい。

新宿の街並みも年と共に変遷を重ね、私は上京のたびに、その様変りの激しさに目を見張ったものである。神武景気に煽られた昭和三十年代はそうした時代だった。
その頃は、もう掘っ立て小屋の酒場は撤去され、義兄の馴染みの店も変っていた。いまでも忘れないのは、全国銘酒々場である、新宿の繁華街に在る小さなビルの二階へ登ると、だだ広い酒場があり、部屋の周囲に酒の自動販売機が何台も立ち並んでいた。それぞれが全国の銘酒別に分けられていて、コインを入れてセルフサービスで陶器の湯吞みに酒を注ぐのである。肴も各地の名産と稱する総菜が並べられていた。
「明さん、この信州の酒は旨いよ。飲んでみたら。あ、俺はあんまり食べないから、明さん何でも好きなもの食べて……うん、こんどは『灘』を飲んでみようか」
「義兄さん、酒量が上りましたね」
「うん、盃でチビチビ飲むのが、嫌いでね、そのくせ一度に沢山は飲めない、いつも少し飲んでいたい。アル中なのかな?」
「まさか。でも顔が真っ赤ですよ」
私の記憶では、その頃から義兄の酒量が急激に増えていった。しかも、その酒が楽しいものではなく、何か鬱憤を酒で紛らわしているような姿に眺められた。
「近ごろは学校の近くで一寸ひっかけて、それから講義だ。なあアに、そのほうがスムーズに喋れて上手い講義ができるんだ」
義兄は芝居でやけ酒を飲む場面そっくりにぐびり、ぐびりと荒い飲み方だった。
「あ、お酒二三杯もってきて、お金はここにある……」
「いや、僕はもう、それに僕は盃でチビチビ飲むほうですから」
「オイッ。もっと飲め。ハッハッハア、酒の無理強いはいけないね。うん、もう一杯だけ飲もう。上品ぶって盃で飲むなんていうのは、キザってものだ。居酒屋でコップ酒、これが酒飲みの本筋だ。文士やジヤーナリストが集まる酒場があるけど、そこだって居酒屋だ」
「そんな飲み方して、おいしいですか?」
「まずい。泣きたくなるほど苦い酒だ」
義兄はかなり酔い痴れていた。私は、酒を飲むときの性癖とでもいうか、相手が先に酔ってしまうと、こちらは白けて酔が醒めてしまうのである。義兄は、ふと思いついたように、
「明さん、晩酌は?」
「一合か二合」
「いいなア。女房の酌で。俺のところはダメだ、女房が働いているから……」
「家庭の事情で……仕方ないでしょう」
「俺は、辞めろって言うんだが、辞めると生活できないそうだ。なあアに、そうなったらそのように、俺がもっと稼ぐよ」
「……」
義兄は突然声を落として、淋しそうに、
「だけど、女房が家にいないのは寂しい」
「そうですねえ、子供のときはお袋さん。大人になれば女房。いつも家に居るのがあたりまえと思ってきたから……。僕は子供のころ学校から帰ると、ただいま、とは言わないで母さんって叫びながら家へ入った。その時お袋がいれば、満足して知らんぷりだけど、いない時は大騒ぎして皆に訊き回る。なに大抵は八百屋あたりへ買物なのだが、いて当り前いないと無性に寂しい。義兄さんの女房願望もそんなところじゃないですか。さあ、元気出して飲みましょう、ホラ涙が……」
「馬鹿ッ。泣いてやしネエよ」
義兄はさきほどからだんだんと寂し気な風情に変わり、気を紛らわそうとするように、聞き覚えのある民謡の替え歌を唄い出した。
「いつたいぜんたいーー明さん、いっしょに唄おう」
私はその民謡を知らなかった。
「いつたいぜんたい、あアなたーー明さん、乾杯してから唄おう、よし、
 いつたいぜんたい
 あアなた
 どこのひと
 コリヤコリヤ
よし。乾杯だ。酒を注いで、
 いつたいぜんたい
 あアなた
 どこのひと
 コリヤコリヤ……」
いつしか私も、かなり酔っていた。そして義兄の歌は堂々巡りだった。
「顔はタムシで
 手はヒゼン
おおい、アキラ、今日は帰ってもネエチャンはいないんだ。ああ、おれの女房はいないんだヨッ」
「姉がどこへ?」
「修学旅行の下見とかで、男の先生と温泉へ行ったんだ」
「嫉妬(やきもち)ですか、それで荒れてる……」
「馬鹿ッ。」
その日の義兄は、いつになく荒れていたのを記憶している。

義兄は年輪を重ねるに従って、私と酒を交しながら、よく徹君のことに触れた。そんな時はインテリゲンチヤから脱落して平凡な親父になり下がり、所謂親馬鹿になる。その話し振りから窺うと、息子こそは己の分身、男同士、肝胆相照し良きも悪しきも無言のうちにすべて理解しあえる百万の味方、と勝手に決めていたのである。
しかし。
あの大石蔵之助と長男大石力の間にさえ、義のために夜ごと脂粉の巷で、心中泣きながら苦酒を呷り遊興する父を、力が諌める場面がある。親の心子知らず、ということだろうか。
私にもこんな経験がある。息子が大学入試の口頭試問で、
「君が最も尊敬する人物は誰か?」と問われ、息子は躊躇せず、
「父親であります」と即答した。私は、後日この件を息子から聞いて、いや、まったく、随喜の涙を流さんばかりに感激して、ひとりほくそ笑んでいたのである。或るとき何かの切っ掛けから私が、さり気なく息子に、
「入試のとき、なぜ父を尊敬するなどと、つまらぬことを答えたのか?」と嬉しさを噛み殺し、わくわくしながら訊くと、息子曰く、「口頭試問トラの巻に、いちばん無難な回答として載っていた」と、こともなげにいった。私は少なからず落胆したのである。
世の父が息子に対していだく、俺の息子に限っては、という期待はたいていはずれるのである。
いつかこんなこともあった。その日はたまたま私と母が上京していた、義兄と姉と長男の徹君、それに母と私の五人が義兄の家で卓袱台を囲み、何やら難しい話になって鬱陶しい雰囲気が漂っていたように思う、詳しい事情は憶えていないが、あらましは、義兄のお酒を呑んでの荒事、お金の使途、女友達、そんなことが重って義兄は、夫として、父親としてそのモラルを問われるような立ち場に追いつめられていた。常識的に義兄の行為は常軌を逸脱しているのである。しかし、何が義兄をそうさせたか、という問題には誰も触れず、考えなかったようである。義兄は、年輪とともに平凡な家庭に憧れ、夢想し、ある時それが駄目だと分かるとレジスタンスを始めたのだと思う、子供が親の注意を惹くために悪戯をやる、それである。
いや、こんな記述の仕方は、いかにも私が義兄の心情をすべて理解していたかのように誤解されそうだが、そうではない、私と義兄の永いお付き合いのうちから得た、義兄の心境の変遷や、そのときどきの心情の動きが、いまも尚、私の胸に残照の如く幽かに宿っていて、それがごく自然に、私に筆を運ばせているのである。
その場の義兄の立ち場は、いわるゆ四面楚歌の体であった。そのとき徹君の何かの言葉が切っ掛けとなって、義兄が憤怒し、
「それが親に対していう言葉か!」と、怒鳴った。
義兄にすれば、この時、なあに男同士だ、俺の息子だ、わかってくれるさ、と云う気安さがあったと思う。
そのころの義兄は、家庭の平和を乱すのを承知で苦い酒を飲み、それが辛くて、紛らわそうと、夜な夜な地獄の酒を飲む。そんな生活で、日ごとに自分の躰を傷つけていくのを自覚しながら、やりきれない気持ちで自身を見詰めていたようだ。
いつだったか私が、酒呑みの言う科白じゃあないけれど、義兄さんは酒で命を縮めるんじゃあないですか、と冗談まがいに話したら、義兄は一寸怖い顔をして、俺は死ぬつもりで飲んでいるのだ、と本気とも冗談ともとれる返辞が返ってきたので、私が白けてしまったのを憶えている。
それが親に対して言う言葉か!と怒鳴ってしまった義兄は、沈黙する四人に囲まれて益々その場に居辛いように眺められた。私は、最前から場違いな席へ座ってしまったことを悔やんでいたところへ、雰囲気が急に険悪に変ったので、その場にいたたまれず席を外そうとした、そのとき、徹君が義兄の言葉を切り返すように、
「親なら、親らしい行動を……」と怒りをぶちまけた。
義兄は哀しそうに顔を歪めた。
私は、私が自分の息子に恥辱の傷口を引っ掻かれたような疼痛を覚えて、頭がくらくらして、周囲が真暗闇になって、何が何だか分からなくなって……。
私の記憶は、ここまででぷつん、と切れている。
義兄は、昭和四十六年十月三十一日、黄泉へ旅立ったのである。(了)





最後の3行で突然投げ出した感じですが(笑)、全体として、すごく好きな文章です。
義兄への愛が全体からにじみ出ていて、ああ、祖父はお義兄さんのこと好きだったんだなーとしみじみします。
ちなみに祖父自身もかなりのうわばみで、晩年はほとんどアル中みたいになっていた。
この文章では、祖父は淡々とした観察者の側に回っているけど、むしろ祖父はここで描かれる義父のように、いわゆる「どうしようもない駄目男」だった。
大手電機会社の管理職まで登りつめ、仕事面は立派にやっていた人だったけれど、その他の面で祖母は相当苦労したようだ。

あとは単純に、この文章から、当時の文体や言葉遣い、時代感などが見えてくるのが面白いなと思う。
今では考えられないようなエピソードが(多少の誇張や脚色はあるだろうが)興味深い。

遺品整理で見つけた限り、ちゃんとした形で完成していたエッセイはこれだけだったみたいだ。
恐らく、何ヶ月、あるいは何年もかけて書き上げたのではないかと思う。

天国でもお酒飲みまくってるんだろうなー、おじいちゃん。